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2009年10月

ZUZUとオーシャンゼリゼ

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加藤和彦が亡くなったことで
死別したZUZUこと
安井かずみ(1939-94/作詞家)を思い出した。
分野は違うけど、
個人的にはこの人のほうが
芸術家としての才能があった気がする。

海外渡航が珍しかった時代に
ヨーロッパの上流社会の暮らしを経験し、
サンローランのオートクチュールを着こなし、
あのダリに街中で見初められ、認められたらしい。

ある日、フルレングスのイブニングドレスを来て
パーティー会場に来たところ
そのパーティーがそれほどフォーマルな雰囲気ではなかったので、
その場でこの高価なドレスの裾を、カットして
カジュアルダウンしたこともあるとか。
話のスケールがすごい。

作詞家としてはもともと訳詞から入った人で
歌謡曲以外でも『ドナドナ』とか
教科書に載ってるスタンダードナンバーも少なくない。
そんな中、ヒットした元歌(厳密に言うと違う)
よりいいなと思うのが『オーシャンゼリゼ』の日本語詞。

街を 歩く 心軽く 誰かに会える この道で
素敵な あなたに 声を かけて こんにちは僕と行きましょう
オー シャンゼリゼ オー シャンゼリゼ
いつも 何か 素敵な ことが あなたをまつよ シャンゼリゼ

きのう までは 知らない どうし 今日から二人恋人さ
道を 行けば 世界は ゆれて 愛するあなたと私のため
オー シャンゼリゼ オー シャンゼリゼ
いつも 何か 素敵な ことが あなたをまつよ シャンゼリゼ

フランス語は日本語の語感と違うので合わせるのが大変。
サビの【aux】Camps-Elysées(シャンゼリゼ【で】の意)は
【オー】シャンゼリゼと感嘆詞にしてたりするけど、
ウキウキするような雰囲気は損なってない。

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元々はこの歌イギリスのサイケバンドの曲('68)だそうだ。
世界的にヒットしたのはシャンソンっぽい
フランス語詞の歌というのが面白い。
フランスでヒットしたのは
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おっさんが歌ったバージョン(元の歌詞的にはこっちのほうがふさわしい?)だけど、
日本では'71年に17歳の少女、ダニエル・ビダルが歌ってヒットした。
ちなみにこの年の紅白で佐良直美が歌ってるのをYOU TUBEで見たけど
ウーマンリブ的な感じの違う人の日本語詞でいまいちだった。
CMで使われてたから変えたのだろうか。
ダニエル・ビダルは営業で覚えたのか?日本語でも安井バージョンを完璧に歌えるようだ。
あの人は今見たいな番組で歌っていたのがいくつかあった。

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旧加藤和彦邸が売りに出てる

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価格 6億1,800万円

物件種別 中古一戸建
所在地 港区六本木3丁目
交通 東京メトロ日比谷線 『六本木』 駅
徒歩6分
東京メトロ南北線 『六本木一丁目』 駅
徒歩6分
間取り 4SLDK
土地面積 161.67m2
延床面積 275.91m2
建ぺい率 60%
容積率 160%
接道 西北 私道 4.00m
完成/築年月 1982年12月
構造 鉄筋コンクリート造:
地上2階 地下1階(スタジオ)
権利 所有権
建物現況 空家
地目 宅地
用途地域 第二種住居地域
引渡時期 相談

場所は六本木通りと飯倉片町の交差点からの道がぶつかる
谷町JCTのほうの三角地帯。
旧六本木プリンスとかIBMのほうに入った奥まった住宅街の中。
立地もそうだけどこれだけの地下室を作るのはタイヘンだから
築30年近くてもこの値段。
固定資産税もすごかっただろう。

きょうの日刊スポーツによると

亡くなった軽井沢は何度も足を運ぶなじみの土地だった。
ここ数カ月はうつ病で通院し、体調不良で仕事を降板していた。
また、行方が分からなくなる前日、
故郷の京都でクルセダーズの初期のメンバーと会食し、
昔話に花を咲かせていたという。

加藤さんは上下きちんとそろった服を着て、
パソコンで書いた遺書2通が見つかった。
個人あてではなく、関係者に迷惑を掛けることをわびる
内容だったという。
また「もう、やりたいことがなくなった」と書かれた手紙が
複数の知人に送られていたことが分かった。
加藤さんは2度の離婚と1度の死別で、孤独な生活だった。
数年前まで住んでいた豪華なマンションにはスタジオが併設され、
坂本龍一ら多くのミュージシャンに貸し出すなどしていた。
華やかな生活の一方、夜中にテレビ番組の感想をスタッフにメールで送ることもあった。

常にそばにいる人がいなかったようだ。

孤独さを埋めるように、
年代物のギターなど高額な買い物をすることも多かった。
六本木の外資系高級ホテルを頻繁に利用し、
市川猿之助の歌舞伎音楽を手掛けた時には太鼓を買い集めた。
借金がふくらんだが生活は変わらず、
出演料の確認が、仕事先に対して頻繁になったこともあった。

   ×       ×       ×

京都生まれとあるけど
wikiを見たら、仏師のおじいさんの実家で
生後すぐから小4まで鎌倉逗子。
で1年だけ京都に戻ってその後、中高は東京。
大学はおじいさんを継ごうということで
また京都。実質、江戸っ子気質だと思うが
京都も入ってる分、すごい見栄っ張りだったのだろう。
芸能人ならそれも必要だ。
ラインで言ったら、万人受けはしないけど

都会出で自意識が高く、とにかく細部へのこだわりが強いタイプ。
三島由紀夫とか田宮二郎とか伊丹十三とか
久世光彦とか景山民夫とか三浦和義とか
みんな亡くなってるな。
海外の情報が少なかった時代なら、
イギリスでは、フランスでは、ロンドンでは、パリではという話をしながら
イヤミなくらいスノッブであることに
それなりの意味があったけど今はどうだろう?

とにかく金があって、かっこよくあることを追求していたけど
かっこいいことを実践してるだけではかっこよくなくて
かっこよくないことをさらしてこそ実はかっこいいという境地には
最後まで立てない。
そんな恥をさらすならいっそ死を選ぶという。。。
ある種、古い日本人的と言えば日本人的。
方向性違うけど、趣味性については
ちょっと岸部シローともかぶる。
このひともウツか。

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加藤和彦は2006年ぐらいでまだクルマも
90年代後半に買った75年型のアストンマーティンV8を
持っていたし、ここにも住んでいたから
最近になって、これまでの貴族的な
散財のつけが回ってきたのかもしれない。
そういや同じ頃、六本木ヒルズのラトリエ・ドゥ・ジョエル・ロブション
で女の人と一緒に食事していたのを見かけたことがある。
日常な感じだったのが印象的だった。

お金に行き詰っていたのだろうか。
プライドもあっただろうから
生活のレベルは急には落とせなかったんだろう。

「もうやりたいことがなくなった」
といっていたそうだけど
仕事でもビートルズでいうとポール・マッカートニーのように
メロディ至上主義で、パッと思いついて出来た人だそうだから
それが出来なくなるのはかなりつらかったはずだ。。。

高度成長で物質的に豊かになろうしていた
70~80年代を謳歌した
スノッブとか高等遊民にとって
今はツライ時代なのかもしれない。

ご冥福をお祈りいたします。

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不毛地帯

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山崎豊子の小説『不毛地帯』のドラマがスタートした。
映画が1回、TVドラマ化されるのは2回目
主人公、壱岐正のモデルは言わずと知れた
瀬島龍三(1911~2007)である。

小説・ドラマは酸いも甘いも噛み締め
戦後を生き抜き、立身出世を果たしたエリートのお話。

略歴

1911年、富山県の農家で生まれ、
陸軍士官学校、陸軍大学校を経て
太平洋戦争時には大本営参謀として
作戦立案に参画。
終戦直前には関東軍参謀(陸軍中佐)となった。
ちなみに上の写真で肩からかかっている紐が
参謀の印である参謀飾緒(通称:参謀肩章)

終戦後はソ連軍の捕虜となり、
シベリアに連行され56年に帰国するまで約11年間、
抑留生活を送る。

58年、当時は繊維商社だった伊藤忠商事に入社。
ゲンナマが飛び交うなど
生き馬の目を射抜くような
激しい戦いがあった次期戦闘機商戦などを担当し、
約4年で取締役に就任。
そして石油部門への進出や、
いすゞ自動車と米GMの提携を仲介するなど、
伊藤忠が総合商社に脱皮するのに貢献。
副社長、副会長を経て78年には会長に就任した。

その後は中曽根康弘元首相のブレーンとして
行革にもらつ腕を振るうなど、 
戦後の政財界で隠然たる影響力を発揮した。

まさに激動の人生である。
           
瀬島は士官学校を次席、
任官地で認められた士官しか入れない
陸軍大学校を首席で卒業。
戦前、軍でもエリート中のエリートしか入れなかった
大本営の陸軍参謀本部作戦課にいた。
いまでいうと東大法学部⇒財務省主計局勤務か
いや厳しさと数で考えるとそんなレベルじゃない。

硬直化、官僚化した昭和陸軍の中で出世できたのは
抜群に要領のいい人であったからに違いない。
戦後、抑留後に早く出世できたのも
陸軍で身に着けた、
防衛人脈と組織と情報のマネージメントのおかげ。
陸軍はいわば彼の原点だ。
中曽根元首相とは時に上から話したそうだが
軍時代の華麗なる実績がものをいったのはいうまでもない。

華々しい経歴と活躍がよく話題にされた
彼だが一方で発言や行動が
誠実でないとして
一部で批判がある。

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共同通信社社会部『沈黙のファイル』や
保阪正康『参謀の昭和史』に詳しいが
終戦後の交渉でシベリア抑留の密約を結んだとか
(要するに仲間を売った)
太平洋戦線でも情報将校の有効な打電をにぎりつぶし、
現地の連隊を玉砕に追い込んだという話もある。
すべては数々の無謀な作戦を計画立案した
上司のため、忠実な犬であったわけだ。
東條のお眼鏡にかなった
開戦以来の参謀本部中枢
いわゆる田中新一-服部卓四郎-瀬島龍三のラインだ。

数人しか知りえない真実を知りながら、
肝心なところは語らずして墓に入った。

11年に及ぶ抑留生活は厳しいものだったと思うが
責任ある軍の中枢にいた以上は
真実を語る義務というのがあって、
抑留生活を送ったからといってそれがすまされるものではない。
陸海軍の大将の中には責任を感じて
戦後、公の場に一切出ず、余生を送った人も少なくない。
臨調での動きを見てもそうだが、
この人には権力をわたる上手さはあっても
信念みたいなものがない気がする。
風見鶏といわれた中曽根氏と馬が合ったのもうなづける。

塀際の魔術師といわれた彼もそうだが
得てして実社会ではこういう人物が往生まで出世するようで
図太いやつほど長生きするという感じがしないでもない。

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